困ります、ファインマンさん

権威なんぞというものには、金輪際頭を下げてはならん。どんな名言であろうと、それを誰様が言ったかなどということにこだわらず、始めと終わりを必ずしっかりと見定め、はたしてそれが理に叶っているか?と、自分の心にたずねることだ

これはつまり、「ちゃんとしたデータがあって、そのデータを分析して、その分析に基づいて判断をすれば、答えは自ずと出る。」ということだろう。このうち、「判断」の過程はそれほど重要ではないと思っている。「分析」までの過程がしっかりとなされていた上で、いくつかの選択肢が残されていた場合、その選択肢はどれも正解だと思うからだ。それよりも、「ちゃんとしたデータが出ているか」や、「その分析がちゃんと出来ているか」の方が重要である。例えば、今の俺なんかは、「十分な教科書はあるのに、読むのが面倒だから、勉強していない」わけであり、これは「分析」の行程を疎かにしている例だ。インターネットがある今、「データはあるけど、面倒だから分析していない」ということが多くなっていると思う。一方、「ちゃんとしたデータが出ているか」疑問なのが、例えば政治だろう。官僚や国会議員は国のデータを全て出してくれさえすればいい。あとはマスコミやネット上の有志等がそのデータをわかりやすく国民に提示する。国民は各々でそのデータを分析し、判断する。それさえできれば何の問題もないのに、とテレビを見ながらよく思っている。

  • p.63-64:火星人から見た地球人

よほど特別なことでもない限りは不死身だと思われる火星人などが、ヒョイとこの地球にやってきたとする。彼らの目から見れば、この人間という生きものは、七、八〇年のうちには必ず死ななくてはならず、おまけにいつ死ぬかわからない命のはかなさを知りながら、なおも生きていかねばならないというつらい問題を抱えた、実に哀れな生きものに見えることだろう。しかしわれわれ人間は、心理的にやりきれない、そんな宿命を抱えていながらも、笑い、冗談をとばし、毎日を何とか生きているではないか。

火星人の視点というのは、俺も浪人時代によく考えていた。特に、3浪・4浪らへんは、周りに同じ境遇の人間がいないものだから、太平洋の真ん中を一人で漂流している気分になっていた。そこで考えるのが、「火星人が今の自分を見たらどう思うか」である。例えば、俺も高校時代はなんとなく、「1浪まではOK」と思っていた。だから、2浪すると決まった時は、「やばい」と思った。さらに、3浪・4浪すると決まった時は、「すごくやばい」と思った。でも、火星人の視点で考えれば、「やばい」なんてことは何もないのである。俺が「やばい」と思ったのは、ただ単に、周りに同じ境遇の人間がいなくて、集団から外れてしまったから、自分の立場に自信が持てなくなっていたからなのだ。集団にいる時は、周りとの相対的なポジションを考えていればよい。例えば、俺は今、薬剤師の国家試験に挑んでいるわけだが、これは、大学内でだいたい平均点くらいを取っていれば受かるようになっている。だから俺は平均点と自分の点数を比べていればいいのである。だいたい平均点を取っていれば安心できるわけだ。しかし、孤独に戦っている時はそうはいかない。周りに比べるものが無いのだ。だから、「火星人の視点」を考える。「火星人の視点」とは、いわば、自分の中の絶対的な基準なのである。「火星人の視点」さえあれば、人と違うことをすることも怖くはない。「火星人の視点」さえあれば、集団がダメになった時、そこから離れることができる。だから今は、浪人して集団を外れたことで「火星人の視点」を得ることができて、本当に良かったと思っている。あの頃、いろいろ励ましの言葉を貰ったが、その中で一番嬉しかったのは、「このまま80歳とかにもなって、まだ浪人してたらスゲーカッコいいじゃん!」という友達の言葉だ。この言葉には、「このまま浪人しつづけてもずっと応援する」とか、「大学に受からなくても良い人生は送れる」とか、いろんなメッセージが含まれていて、最高の言葉だと思うし、国家試験に挑んでいる今も、よくこの言葉を思い出している。確かに、「卒業できなかったらどうしよう」とか、「国試受からなかったらどうしよう」とか、考えないわけではないが、そんなことじゃ人生は何も決まらない。人生において、重要なことはたった1つ。命を燃やすことだ。どんな立場で何をやっているか、なんてのは全くどうでもいいことなのである。

  • p.73-79:茶首ツグミという名前がわかっても意味が無い

「・・・いくら名前を並べてみたってあの鳥についてはまだ何ひとつわかったわけじゃない。ただいろいろ違った国の人間が、それぞれあの鳥をどう呼んでいるかわかっただけの話だ。さあ、それよりあの鳥が何をやっているのか、よく見るとしようか。大事なのはそこのところだからね」と言ったのである。こうして僕は早くから、何かの名前を知っているということと、何かの意味を本当に知るということの違いを教えられたわけだ。

役職名や大学名。名前に惑わされるべきではない。ソイツが有能かどうかは、ソイツを"よく見ていれば"わかる。大事なのは、観察により気付く能力だ。そして、何に気付くかは、観察者のセンスによる。センスはあるかないかではない。磨くか磨かないかである。だから、あらゆる手を用いてセンスを磨かなくてはならない。センスを磨かずにいると、名前に惑わされる人間になってしまうだろう。

  • p.80:答えの出し方はどうでもいい

そもそもxを出すのに代数でやるとか、算数でやるとかいうことがあるものか。「代数でやる」というような考え方は、代数を勉強する生徒が皆試験にパスするように、学校が勝手に作り出したいい加減なルールに過ぎない。自分がそもそも何をしようとしているのか、その目的も意味もわかっていない者でも、やれ7を両方の項から引くのだとか、やれ乗数があるときは両項ともその乗数で割るのだとか、ただ順番に当てはめていきさえすれば答えが出せるというようなルールだ。

「目的が達成されるならば、手段は問わない」この発想はとても好きだ。例えば、写真の場合なら、目的は良い写真を撮ることである。そのためには、デジタルであろうがアナログであろうが、一眼レフであろうがコンパクトカメラであろうが、関係ない。世の中には、「このカメラで撮ったからこの写真はダメだ」とか、「この構図だからこの写真はダメだ」と思っている人がいるが、それは違う。カメラや構図は、良い写真を撮るための1つの手段に過ぎないわけで、そこから外れても良い写真を撮ることはできるのである。

去年の6月。病院実習の帰り、夕日が綺麗だった。手持ちはコンパクトデジカメのみ。いつも使っているデジカメを取りに家に帰ってると夕日が消えてしまう。手持ちのコンパクトデジカメで夕日を撮ろうと決めた。

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  • p.90-98:数の数え方は人それぞれ

トゥキーは僕とは違った方法で数えているのだ。彼は数の書いてあるテープが動いていくのを目に浮かべていたのだ。そして「メリーさんは仔羊を一匹飼っていました」と言いながら、このテープを眺めていたわけだ!これでわかった。彼はテープが動いていくのを「見て」いるわけだから、ものは読めないのだ。一方僕は頭の中で数を唱えているのだから、当然同時にしゃべるわけにはいかないわけだ!

(中略)

この実験のおかげでトゥキーと僕は、人がたとえば数を数えるなどという単純なことをやる場合、皆が皆同じことをやっているのだと思いこんでいるが、実は決してそうではなく、人によってずいぶんやり方が違うものだと悟ったのだった。

(中略)

人は何か一つの観念を説明しようというとき、すでに自分の頭の中にある考えに基づいて説明するのがふつうだ。この概念はあの考えをもとに教えられ、その「あの考え」はまた他の概念に基づき、そのほかの概念とは例の数を勘定することから来ている・・・というふうに、概念というものはレンガの壁のように積み重なっているものだ。そしてその数の数え方というのは、人によって千差万別なのだ!

最近、国試とか卒試とかのせいで、「頭の良さ」について考えることが多い。頭の良さをコンピュータに例えれば、それは2つの要素に分けることができる。1つはCPUやメモリといったスペック、もう1つはプログラムの処理方法である。スペックが良ければ、難しいプログラムをそのまま処理することができるが、スペックが悪ければ、難しいプログラムを簡略化して処理しなくてはならない。つまり、「頭が良い」とは、「スペックが良い場合」と「簡略化が上手い場合」の2つの場合があるわけだ。しかし、俺がよく思うのは、スペックによる頭の良さなんか無い、ということである。例えば、記憶力が良い人はスペックが高いという意味で「頭が良い」と言われることが多いが、ローマンルーム法などの記憶術を使えば、飛躍的に記憶力は向上するわけで、それはプログラムの処理方法によるものだ。じゃあ、そもそも「頭のスペックが高い」ということはどういうことか考えてみると、脳の中の神経細胞の数が多いとか、その神経細胞を伝わる信号の速さが速いとか、そういうことになると思うが、少なくとも脳が重いほど頭が良いという事実はないし、信号の速さはイコール化学反応の速さだからこれは誰でも同一である。というか、そういったことを考えなくとも、スペックの絶対値なんてのは個人によってそうそう変わるものじゃないんだから、「自分の脳はスペックが低い」と考えるのは非合理的だと思う。スペックが低いかどうか気にしてる暇があったら、処理方法を工夫するべきだろう。まあ、「自分の脳はスペックが低いから、人一倍処理方法を工夫しなきゃ」という発想はありだと思うが。ただ、俺の周りの優秀と言われる人を見る限り、「自分の脳はスペックが低い」と考えてる人はあんまりいないように思う。スポーツ選手が「自分には運動神経が無い」と考えないように。逆に言えば、「自分の脳のスペックは低くない、処理方法を工夫すればできるはずだから頑張ろう」と考える人が優秀になるんじゃないだろうか。

  • p.268:現場とお偉方

会が終ったときにはもう何の疑いもなかった。ここでもシールの場合とまったく同じことが起こっていたのだ。下の方では現場の技師たちが声を限りに「助けてくれ!」「これは一大事だ!」と叫んでいるというのに、上の方ではお偉方の管理職どもが、安全確保の基準をどんどん甘くしているのだ。そして設計時に予期しなかった誤りが出てきても、その原因の究明もせず、いい加減に片づける、というようなことが起こっていたのだ。

この文章を読むと、どうしても今の政治のことを連想してしまって批判したくなる。しかし、今俺が考えなくてはならないのは、「もし自分がお偉方の管理職になったら」ということだろう。立場が上の人が下の人の意見を聞くのは案外大変なのかもしれない。今、俺が怠惰な生活を送っているようでは、たとえお偉方の管理職になったとしても、下の人の意見を聞くことはできないわけだ。

  • p.319-320:科学の高潔さ

僕は科学の分野なら慣れているからわかるのだが、科学でほんものの仕事をしようと思うなら、自分が結果はこうなるべきだと思っていることに断じて左右されず、あらわれている事実をありのままにできるだけ注意深く述べることだ。また自分で理論を作りあげたのなら、その欠点と長所を公平に説明する努力をするべきなのだ。科学の分野にある人間は、そのような一種の正直さと高潔さといったものを学びとるものだ。しかし科学以外の、たとえばビジネスの世界ではそうはいかない。僕らの目にする広告だって、ほとんど全部が明らかに消費者をたぶらかすよう作られているものだ。消費者に読んでほしくないことは、虫眼鏡でも見えないぐらい小さい字で印刷してあるし、文だってわざととらえどころのない書き方がしてある。その製品が科学的に公平に説明されていないことぐらい、誰にでも一目でわかるものだ。つまり物を売る商売では、さっき言ったような高潔さなどというものは考えられない。

前半部の「科学の高潔さ」は情報が溢れている現代において非常に重要だと思う。俺が大学院に進むのも、この高潔さを身につけたいからというのが理由の一つだ。しかし一方で、後半部の「不公平な説明」も等しく重要だと思っている。「不公平な説明」とは、言い換えれば「表現」である。有限の時間の中で、自分の思ったことを人に伝えるためには、情報は厳選しなければならない、不必要なものは切り捨てなければならない。残酷なようだが、それが生命の本質だと思う。そこに命をかけられなければ、表現者ではない。