"ひも"とは006:レベル2→レベル3(part1)

今回は2度目のターニングポイントの話です。1度目のターニングポイントではシュマゴラス君から自由を感じることを学び、レベルが2となりました。じゃあ、2度目のターニングポイントは誰との出会いだったのかですけど、それはズバリ、代々木ゼミナールの亀田和久先生に他なりません。亀田先生から「人生の"ひも"」を教えられ、俺はレベル3となったのです。この場合の"ひも"とは、「どう生きるべきか」ということでして、亀田先生はこのことを全ての授業を通し、メッセージとして俺ら生徒に投げ掛けてくれました。中でも、最初の授業(ハイレベル化学初講日)と最後の授業(ラジカル化学)は、その比率が圧倒的に高く、それを聴かないと話にならない・・・、というと大げさかもしれませんが、とにかく重要な授業なのです。

そしてこれから、その最初の授業の内容を紹介していきたいと思います。はっきり言って、このブログを始めた最大の理由は、今から書く内容をなるべく多くの人に伝えたかったからです。俺はこれを聴いて、人生救われました。何が大切かがわかりました。もちろん、これが全ての人の答えにはならないでしょうが、でも、なにかしら考えることがきっとあると思うので、めんどくさいでしょうが、読んでもらえると嬉しいです。

俺が思うに、亀田先生の最初の授業はこのグラフに尽きると思います。

このグラフ、横軸は「年齢」、縦軸は・・・先生は「終わっちゃってる度」とか言ってましたが、「幸せ度」という解釈が適当でしょうか。先生は、「じゃあ、これからの君たちが送る人生を見せてあげます」と言い、青線のグラフを書いていくんですよ。解説を加えながら。

大学に入り、真剣に学問をせず、遊ぶだけ遊び、大卒の肩書きを得て、就職すると、あまりに仕事が辛いため、ストレス解消に居酒屋で上司の悪口を言い、いい事が無いから適当に彼女を作り、結婚し、新婚生活で少しだけ幸せを味わうも、半年もすると妻から邪魔者扱いされ、子供が出来、さらに邪魔者になり、自分は収入を得るだけのマシーンと化し・・・。

・・・と、これは男バージョンの解説なのですが、まあ、女バージョンもそんなに変わらなくて、つまり、「このまま行ったら、君らに輝ける未来など無い」というようなことを教えられるわけです。

これを聞いて、皆さんはどう思うのでしょうか。正直、他の人がどう思うのかは知りませんが、少なくとも俺は完全に納得し、完全に想像することが出来ました。自分が将来そうなっている姿を。なぜなら、俺はそれまで「なるべく楽をして生きていきたい」と思っていたからです。そして何より、「大学は遊びに行くところ」という認識を持ってました。まさに先生は、俺の将来の姿を予言してくれたわけです。

"ひも"とは005:レベル1→レベル2

俺はこれまでに2回、ターニングポイントというものがありました。この2回はどちらも人からの影響によるものなのですが、今回はその1回目のターニングポイントについて書こうと思います。

中学1年の秋から中学2年の冬にかけて、俺は同じクラスのシュマゴラス君(仮名)という友達とほとんど毎日のように遊んでいました。シュマゴラス君の特徴を一言で言うならば「頭の良い不良」。自分より不真面目なクセに自分より成績がイイなんていうのは、今から考えるとたいしたことではないのですが、当時の俺の尺度からすると、自分よりレベルが1つも2つも上のように感じてたのです。

ただ、シュマゴラス君は塾に通っており、俺は通っていませんでしたから、別に成績に対する差はあまり感じてませんでした。むしろ、圧倒的な差を感じたのはその不真面目な部分です。学校で禁止されているゲーセンに通いつめたり、4車線の大通りを自転車で斜め横断したり、家にあるワインをラッパ飲みしたり。大人から「やっちゃいけない」と言われていることに対して、やらないし、やろうとも思ってなかった俺にとって、シュマゴラス君は全く理解不能な存在だったのです。

もちろん、不真面目な人間は他にも沢山います。でも、シュマゴラス君とは違い、彼らのことはいくらか理解できました。俺が、大人から言われたことに「Yes」と答えているのに対し、彼らは「No」と答えているだけだと思ったからです。

では、そんな彼らとシュマゴラス君との違いはなんなのか、という話ですけど、違いは「自由を感じているかどうか」だったように思います。自由を感じていれば、世の中何をやってもいいわけです。例えば、4車線の道路を、横断歩道で渡ってもいいし、斜め横断してもいいし、スキップで渡ってもいいし、側転で渡ってもいいし、選択肢は無限です。なんなら渡らなくてもいい。

自由を感じていない俺が、外部から選択肢を与えられ、それに「Yes」か「No」の2択で答えているのに比べたら、自由を感じているシュマゴラス君は、自分で選択肢を作り出し、無限の選択肢を得ているわけですから、そこにレベルの差を感じるのは当たり前でしょう。

つまり、俺がレベル1であるのに対し、シュマゴラス君はレベル2なのです。このレベルの差は、選択肢を需要する人間と供給する人間の差なので、レベル1の人からすると、レベル2の人は大変ありがたい存在です。「この人の近くにいれば、人生が楽しくなる」と思ってることでしょう。というか、当時の俺はそう思っていました。

また、このレベルは「次元」と言い換えることも出来ます。レベル1の人は、前に進むか後ろに進むかの2択なので、1次元(数直線)です。それに比べると、レベル2の人は無限の選択肢を持っていますから、0°〜360°のどの方向に進むことができ、2次元(面)と言えます。

この感覚はキャプテン翼を読んだ方には分かって貰えるでしょう。ロベルト本郷いわく、サッカーは自由なわけです。フィールドという盤面の上で何をしてもいいのですから・・・。そして、こんなことを書いているくらいなので、俺はその後、シュマゴラス君のおかげでレベル2になったわけです。もちろん、完全に自由を感じていたかどうかは疑問ですが。

"ひも"とは004:無意識を意識する2

前回書いた「無意識を意識する」ですが、この技術は写真を撮る時にも生かされています。自分で言うのもなんですが、客観的に見ても、俺は写真を始めた頃から比較的上手かった方だと思います。それは一重に「無意識を意識する」技術のおかげなのです。

写真を撮るという作業は、2つの工程からできています。1つは、「何を撮るか」を決める工程と、もう1つは、「どのように撮るか」を決める工程。この時、「無意識を意識する」という技術が生かされるのは、主に「何を撮るか」を決める工程です。

前回、「俺の"ひも"が感じたことに対して、丁寧に気づいてやることで、コードを判別しているのです。」と書きましたが、実は、写真についても俺は全く同じことをしています。どういうことかというと、俺の"ひも"は眼から入ってきた景色に対して、常に美しいかどうかを感じており、それを丁寧に気づいてやっているのです。例えば、この写真を見てください。

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この桜、実はゴミ捨て場の隣に咲いていました。しかも葉桜。こうして撮ると良い写真(だと俺は思ってます)ですが、普通はゴミ捨て場の隣にある葉桜をキレイだとは思いません。それは、葉桜と共に汚いゴミ捨て場が眼に入るのと、「葉桜は美しくない」という固定観念が働くためです。つまり、意識上には相殺されてしまい、「美しくない」という情報しか出てこない。しかし、"ひも"は葉桜の緑と薄ピンク、それと青空のコントラストを「美しい」と感じている。それに気づいてやればいいのです。

ところで、その肝心の"ひも"はどうやって出来たのか。先天的なものなのか、後天的なものなのか。俺の感覚は、2:8(先天的:後天的)位なのではないかなと感じています。俺が今までどうやって生きてきたかが、俺の"ひも"を作っているわけです。それは、次のようなイメージです。俺の心(脳)の中に"ひも"というスープ鍋があり、そこに毎日食材を投げ込んでいる。食材とは俺が経験した全てのことで、例えばそれは本であったり、見た景色であったり、人としゃべったことだったりです。そして、「無意識を意識する」というのは、そのスープから漂ってくる匂いを嗅ぎ分けることなのです。例えば、サッカー選手(特にFW)に対して、「ゴールに対する嗅覚を持っている」というような事を言いますが、それはまさに「無意識を意識する」だと思うのです。

(日本のFWが点が取れないのは、「無意識を意識する」感覚を知らないからなのではないでしょうか。きっと、写真や音楽をやったら、もっと点が取れるようになると思います。そういえば、ロナウジーニョはサンバを演奏しますし、サッカーの強い国は芸術に長けている国が多いような気がします。)

"ひも"とは003:無意識を意識する

俺は、絶対音感はありませんが、コードを判別することはできます。もちろん相対的ですし、あまり複雑になってしまうと無理ですが。絶対音感の取得に比べると、コード判別はそれほど難しいことではありません。ギターのようなコードを奏でる楽器をしばらく練習していれば、誰でもとは言いませんが、ほとんどの人ができるようになる気がします。

そういう俺も、曲作りのために始めたギターのおかげで、コードがわかるようになりました。もう昔のことなので、あまり記憶に無いのですが、コードがわかるようになってまもなく、こう思ったことだけは覚えています。

「なんだ、今までだって聴こえてたじゃないか」

そう、別にそれまで聴いていた音楽が変化したわけじゃないのですから、当たり前です。突然耳が良くなって、聴こえなかった音が聴こえたわけでも無いですし。

で、そのコード判別の方法なのですが、他の人はどうなのか知りませんけど、俺は感情の変化によってコードを判別しています。例えば、ハ長調でいうと、Cは「まっすぐな感じ」、Gは「爽やかな感じ」、Fは「暖かい感じ」といったように、俺の"ひも"が感じたことに対して、丁寧に気づいてやることで、コードを判別しているのです。

要は、無意識下の感情に気づくかどうかなのです。俺はこれを「無意識を意識する」と呼んでいます。しかし、芸術が得意な人が全て無意識を意識しているかというと、そうではないようです。俺より芸術が得意な友達に話を聞くと、そんな難しいことは考えてないらしい。

これは俺の見解なのですが、そういう人は、「無意識>意識」という状態になってるのではないかと思います。言い方を変えると、「"ひも"が表に出やすい」タイプ。残念ながら、普段意識的に生きようとしている俺には、その域まで達することはできないでしょう。「無意識を意識する」で精一杯なのです。

"ひも"とは002:音楽の"ひも"

「芸術とは、"ひも"を表現すること」だと、俺は思っています。きっと皆さんの周りにも、芸術が得意な人、不得意な人がいると思いますが、その違いは、上手く"ひも"を表現できるかできないかの違いなのではないでしょうか。

芸術が不得意な人から見れば、得意な人ってのは、「才能があるから上手い」と考えるのでしょうけど、俺はそう思いません。芸術が得意な人というのは、「"ひも"を感じ取る感覚」を知っている人なのです。もちろん、才能があって先天的にその感覚を知ってる人もいますが、同時に、後天的に会得した人も同じくらいいると思います。一方、芸術が不得意な人="ひも"を上手く感じ取れない人。
この人が、なぜ"ひも"を感じ取れないのかというと、"ひも"にフィルターをかけているからに過ぎません。

音楽で具体例を挙げてみます。まず始めに、コードについてです。このmp3を聴いてみてください。

sample1

これは、礼をする時のピアノ伴奏です。きっと分かったと思います。では、次。

sample2

もし、これが礼をする時鳴ったら、「アレ?」と思うことでしょう。前者はコードで言うと、「C→G→C」であるのに対して、後者は「C→F→C」です。つまり、「アレ?」という感情は、その人の"ひも"が「GとFの違い」を感じて生じたものだったのです。これと同じように、"ひも"は音楽を聴いている最中、常にコードを感じ取っています。だから、音楽が心地よく聞こえるのです。

だけど、音楽をやっていない人は、普段、音楽を聴いていても、「あ、ここは、C→F→G→Cだな」とは思いません。それは、"ひも"はコードを感じているにもかかわらず、フィルターをかけてしまっているので、意識上に昇ってこない。つまり、「"ひも"を感じ取る感覚」が鈍いのです。

続いての具体例は、絶対音感相対音感。これは、養老孟司さんが出演していたTV番組の内容を、俺なりにアレンジしたものです。まず、このmp3を聴いてみてください。特にメロディを中心に。

sample3

ほとんどの人は「ドレミファソラシド」と聴こえたのではないでしょうか。でも、本当は、「ソ♯ラ♯ドド♯レ♯ファソソ♯」と鳴っています。この時、「ドレミファソラシド」と聴こえることを相対音感。「ソ♯ラ♯ドド♯レ♯ファソソ♯」と聴こえることを絶対音感というのです。よく言われる、「絶対音感を持った人は全ての音が音階に聴こえる」というのは、最高クラスの絶対音感のことでして、そこまでいかなくても、先ほどのmp3を「ソ♯ラ♯ドド♯レ♯ファソソ♯」と聴こえるならば、絶対音感があると言っていいと思います。

ちなみに俺は、相対音感しか持っていないのですが、4歳から8歳位までピアノを習ってましたから、ピアノの音に限り、しかも単音ならば、絶対的な音を当てられます。高すぎたり低すぎたりすると無理ですが・・・。一応、それも絶対音感ということですが、最低レベルですので、これでは絶対音感があると言えないでしょう。

話を戻します。

実はこの絶対音感相対音感相対音感の方が、高度な処理をしているのだそうです。つまり、相対音感というのは、耳からは「ソ♯ラ♯ドド♯レ♯ファソソ♯」と入力されているのに、それを脳内のフィルターで「ドレミファソラシド」と変換しているのです。一方、絶対音感というのは、「ソ♯ラ♯ドド♯レ♯ファソソ♯」という入力を、そのままにしているだけ。結局、これもコードと同じで、"ひも"は絶対音階を感じているにもかかわらず、フィルターをかけてしまっているので、相対音階にしか聴こえないわけです。

"ひも"とは001:"ひも"

みなさん、超ひも理論というのをご存知でしょうか。英語で言うと、「Super String Theory」。おそらく知らない人が多いと思うので、まずその説明から始めます。

超ひも理論ってのは、物理学の新しい仮説なんですよ。まあ、新しいって言っても、考え出されたのは俺の生まれる前らしいのですが。ほら、高校で習う物理って、ニュートン力学だったじゃないですか。で、宇宙規模のでっかい範囲でニュートン力学を当てはめると、矛盾が生じるっていうんで出来たのが、アインシュタイン相対性理論。逆に、電子とか、素粒子のような微小な範囲で矛盾が生じて出来たのが、量子力学なわけです。

でも、宇宙に2つの理論があるのは、物理学者としてはイヤみたいなんですよ。なんとか、1本の方程式で表わしたいらしい。そこで考え出されたのが、超ひも理論なのです。あくまで仮説ですけどね。どんな仮説かというと、「物質の最小単位を"ひも"とする」わけです。そう仮定して計算すると、全く矛盾の無い美しい方程式だか理論だかになるという話でして。しかし、実際には小さすぎて、"ひも"が観測出来ないので仮説の域をでない。もしかして、全くの的外れの可能性だってあるわけです。

・・・ま、説明はこんなところですよ。M理論とか、もっと詳しいことが知りたい方はWikipediaでも読んでみてください。この説明では簡単すぎて、間違った言い方になっているかもしれませんが、正直、本当の超ひも理論について、それほど詳しく知って頂く必要はありません。ただ、これからの話に関係するので、知って頂きたいのは、「(仮説ではあるが)超ひも理論は宇宙の真理を表わしている」、ということです。

そして、俺がこれからしようとしている話というのが、「人の中にも"ひも"がある」、ということなのです。ここで、"ひも"のことを"真理"という言葉に置き換えてもいいのですが、それだと宗教っぽくなってしまう気がするし、"ひも"の方がインパクトがあるので、"ひも"という言葉を使っていこうと思います。また、"真理"という言葉は「不変」な感じですが、俺の言う"ひも"は、雲のように、少しずつですが絶えず動いています。そういう意味では、"真理"というより"感性"と言った方が当てはまるのかもしれません。

つまり、何が言いたいのかというと、"ひも"というのは、「1人1人の人間が持っているコア」なのです。その"ひも"にしたがって、人は毎日生活している。例えば、俺が馬券を買います。その時、どの馬券を買うかって言うのは、俺の"ひも"が決めているわけですよ。「じゃあ、"ひも"っていうのは、その人の"考え方"じゃん」、と思うかもしれません。

では、もうひとつの例。俺が作曲をします。その時、その思いついたメロディってのは、俺の"ひも"から出てきているわけです。この場合、"考え方"という言葉は当てはまりません。先ほどの、"感性"という言葉の方がフィットするでしょう。

このように、"真理"とか"考え方"とか"感性"と言えるような、人間の中に漠然とあるものを、俺は"ひも"と呼んでいるのです。

ブログに対する考え方02

「本音」について書きます。

人の本音とは、偏った考えだと思います。おそらく、公正な本音を持っている、そんなNHKのような人はいないでしょう。でも、ある程度大人になるとその偏りを客観視できるようになり、補正を行います。そうして出来るのが「建前」だと思うのです。

例えば、俺が思うブログに対する本音は、「もっとみんな激しい本音を書けばいいのに。」であり、建前は、「まあ、みんな自由にブログを使えばいいんじゃない?」、なわけです。しかし、ネット上にこの考えを載せると、「建前=ウソ」「本音=本当」という風に捉えられてしまい、俺の考えは「もっとみんな激しい本音を書けばいいのに。」だけと受け取られてしまいます。こうなる原因として考えられるのは、情報量が多過ぎるせいで、より簡単に他者を捉えようとする余り、その人の意見を単一にしてしまう、というようなことでしょう。きっとオフラインでよく話し合ったなら、こんなことは起きにくいと思います。

じゃあ逆に、オフラインでの会話がそんなに素晴らしいものかというと、俺はそう思いません。「売り言葉に買い言葉」というように、会話には、相手の意見を聞いて自分の考えを整理する、という時間が余りにも少ないと思うからです。人と話していると、いつの間にか自分の意見と違ったことを喋っているという経験はないでしょうか。

また、会話には必ず相手がいます。なので、その相手に気を使わなければならないというデメリットもあるでしょう。例えば、明らかにカツラの人の前で、カツラの話は口が裂けてもできないように。その点、ブログならば不特定多数に向けて書いているわけですから、たとえそのカツラの人が読んでいたとしても、内容次第で書くことはできます。もちろん、会ったその日とかは無理でしょうけど。

つまり、「会話ではバイアスのかかった本音しか出せない」のに対して、「ブログではニュートラルな本音が出せる」ということが言いたいわけです。

ただし先程書いたように、ブログでは書き手の考えが上手く読み手に伝わらない、という問題があります。なにしろ書き手はただの素人なわけですから。しかし、ローカルなブログなのだから、俺はそれでもいいと思っています。例えば、メジャーなブログでは誤解されると面倒なことになったり、ローカルであっても掲示板等では過ぎた論争になったりしますが、俺がこのブログで何を書いても、所詮は「しがない大学生の独り言」にしかならないでしょう。それは確かに甘えかもしれません。でも、それ以上に得られるものがあると思うのです。書き手側にも読み手側にも。

このブログを読んで「何かを得た」と思う人には納得して貰えるでしょうし、もし「何も得てねえゼ」と思う人には、「何かを得た」と思える位のことをこれからお見せできたらと思っています。