MyStrings015:スタミナ(1263文字、ランクD)

ふと思い返せば、この5〜6年の間の俺は、"やる気"をいかに高めるかということだけを考えていたように思います。それは、浪人時代でも大学でも、大して面白くもない"勉強"という行為を何とかしてするためだったわけですが、最近思うのは、その"やる気の管理技術"こそが人生を幸せにする秘訣なんじゃないだろうかということなんです。

と、ここで、その"やる気"という曖昧な言葉を"スタミナ"という言葉に言い換えたいと思います。なぜなら、まあ、俺が思うにですが、フィジカル的なスタミナが"体力"で、メンタル的なスタミナが"やる気"なわけでしょう。でも、この2つって密接な関係にあって切り離しては考えられないと思うんですよ。なので、この"体力"と"やる気"をまとめて"スタミナ"という言葉で表現したいのです。

で、です。やはり、このスタミナ値っていうのは人によって違うと思うんですよ。例えば、「昨日、残業して飲み会行った後カラオケでオールしちゃってさぁ!」なんて言いながらその日もバリバリ働く人なんかは文句無くスタミナ値が高いですし、「1日で横山光輝三国志を全巻読破したよ」とか、「FFの新作、発売日の朝に買ってそれから寝ずに全クリしたよ」とか言ってる人も、かなりスタミナ値が高いと思います。

ただしこれらの例は、脳内でドーパミンがたくさん出る行為、つまり"楽しいこと"をしてる場合の話ですから、スタミナ値の減りはやはり少ないわけで、この人らが"つまらないこと(=ドーパミンの放出が少ない行為)"をしてた場合、これほどのパフォーマンスを見せられるかというと、そうではないと思うんですよ。

一方で、もともとスタミナ値が少ない人もいますよね。例えば、仕事もあんまり打ち込めず、休みの日も家でゴロゴロしてる人とか。いや、俺は最近そういう人を否定する気は無くなりましたが、でも、今の世の中だとそういう人はバリバリ働く人に比べてなかなか幸せになれないのは確かだと思うのです。

つまり、まとめるとこういうことですよ。

今の世の中は、他が同じ条件ならば基本的には頑張った人間ほど幸せになれる世の中である。学生の時は頑張って勉強した方が、社会に出た後は頑張って働いた方が見返りも大きい。それは言い換えると、固有のスタミナ値の大きい方が有利ということである。ただし、たとえ固有のスタミナ値が大きい人が自分の好きなことをやっている場合でも、ドーパミンの放出が少なくなる場面は往々にしてあり、固有スタミナ値の大小にかかわらず、その値が枯渇してしまうことは避けられない。よって、ほとんど全ての人が"スタミナの管理技術"ということを考えなければ幸せにはなれないということなのである。

・・・とまあ、ここまで難しく書いてきましたけど、簡単に言えば、「やる気が湧かない時はどうすべきか」という問題なわけです。もし、「やる気が湧かない時はやらない」という態度をとるなら別ですが、そうではない場合、やはり"スタミナの管理技術"が必要だと。

ということで、本題の"スタミナの管理技術"は次回です。

梅田 望夫・茂木 健一郎-「フューチャリスト宣言」

この間、内分泌の授業で「負のフィードバック」と「正のフィードバック」について習ったんですけど、この"フューチャリスト宣言"を読みながら、「ああ、梅田さんや茂木さんのような"フューチャリスト"は正のフィードバックで生きてるんだな」というようなことを思ってました。

つまり、インスリンで血糖値が下がったら、もっとインスリンを分泌するのが正のフィードバック、逆にグルカゴンを分泌して下がりすぎた血糖値を元に戻そうとするのが負のフィードバックってわけです。まあ、この例からもわかるとおり、内分泌ってのはほとんどが負のフィードバックなんです。そりゃあ、インスリンを分泌し続けたら低血糖で死んでしまいますからね。生体は、負のフィードバックでホメオスタシス(生体内恒常性)を保ってるわけですよ。ただ、女性の排卵においては例外的に正のフィードバックが働くそうで、これは非常に興味深いメタファー(隠喩)になってると思うんです。

つまり、「創造的なことは正のフィードバックで起こる」。これですよ。俺なんかはこの「正のフィードバックの感覚」ってのが、よくわかりますね。曲作ってる時や写真撮ってる時なんか、時間を忘れて、キ○ガイのようにやってますから。そう、このキ○ガイってのが、この本の中で言われてる"狂気"なのでしょう。「Googleの創業者は"狂気"を持っていた」みたいな。それは例えば、キャプテン翼大空翼が言った、「(俺は)バカはバカでも、サッカーバカだ!」と同じで、そういう狂気を心の中に持ってないと、一流にはなれないんだと思います。

また、そう考えると、"フューチャリスト"、"狂気"、"正のフィードバック"みたいなものが、いろんな人から批判されるのもわかりますよね。彼らからしてみれば、社会のホメオスタシスみたいなものが壊される気がするから、拒否反応を示してしまうんでしょう。で、客観的な分析はここまでにしておいて、ここからは俺の主観的な意見を言います。俺は、「みんな、もっとキ○ガイになって、夢を見ようよ!」こう思ってます、正直言って。アホですみません、って感じですけど。

でも、この前、「皆さん、もう1度東京オリンピックの夢を見ませんか?」と言って、石原さんが都知事に再選されたじゃないですか。そういうのを見てて、世間の人たちの中にある"狂気"が、発散されたがってる
ように感じるんですよ。それをなんとか、いい形で表現できたらいいですよね。オリンピックでも、Webでもいいから。というか、TV見てたりして思うんですけど、なんか、「今のこの世の中は狂っている」みたいなのがトレンドじゃないですか。でも、ホントにそうですかね?

俺は写真撮りに観光地みたいなところによく行きますけど、そんな感じは全くしませんよ?微笑ましい家族連れは沢山いるし、幸せそうな老夫婦とかも沢山います。それに、「ゆとり教育世代はバカ」みたいな文脈も流行ってるけど、それもわからないじゃないですか。詰め込み教育世代には理解できないような長所が実はあって、あの世代が数十年後に大活躍するかもしれませんよ?

あと、環境問題についてもそう。なんか、産業革命前の美しい地球を0と考えて、人間があれから-100くらい環境指数を落としたみたいに思ってますよね。そして、車に乗る時も、なんとなく罪悪感を感じてたり。そうじゃなくて、今の地球環境を0として、これからプラスにしていこうって考えた方がいいんじゃないですか?例えば、今までレジ袋を貰ってたのを、Myレジ袋を持参するようになったら、「お、地球環境に1チャリン貢献できたぞ」みたいに思った方が、毎日が楽しいじゃないですか。「あーあー、今日も30kmも車に乗っちまったぜ」って思うより。

つまり、何が言いたいかというと、今を"つまんない"と思って生きてるヤツは一生"つまんない"人生を送る、ってのと同じように、現代を悲観してるヤツは未来永劫世の中を悲観するんだと思うんです。だから、「今がダメだと考えないで、もっともっと良くなっていこうよ」。「正のフィードバックでいこうぜ」。この感覚が、"フューチャリスト宣言"を読んで俺が感じたことなんです。

茂木健一郎-「ひらめき脳」

この本を読んで、長年の疑問が解けました。その疑問とは、「俺、高校生を境に、テストで点をとれるタイプの人間から点をとれないタイプの人間になったみたいなんだけど」というものです。普通ならそれは、「中学時代の方が勉強してたんだろ?」とか、「高校からは基礎ができてないと点がとれないんだよ。」なんていう理由で片付けられてしまい、結局「オマエの努力不足だ」ということになったわけですけど、自分自身の感覚としては、そうじゃないんですよね。その答えは、俺がいわゆる「ひらめき脳」になったからみたいなんですよ。

ほら、俺、高校時代から曲作りを始めたじゃないですか。作曲って、つまりは「ひらめき」なわけです。そして、「ひらめき」っていうのは、この本によると「スロー・ラーニング」なんだそうです。どういうことかというと、例えば、「25+34は?」と聞かれたら、みなさんきっとすぐに、「ああ、59ね。」と答えられるじゃないですか。これが「ファスト・ラーニング」なのだそうです。

一方、「いい曲を作れ」と言われたら、そんなに簡単にはできないですよね。四六時中悩みに悩みぬいて、ある時、「これだ!」とひらめくわけでしょ?これが「スロー・ラーニング」らしいです。そしてまた、「ひらめき」とは「ド忘れしたことを思い出す」ということとかなり似ているのだそうです。

このことを俺はこう思ったんですよ。Webサイトって、最近見たサイトは一次キャッシュに蓄えられていて、すぐに出力できるじゃないですか。一方、初めて見るサイトは全部ダウンロードしてこなきゃいけないから、それだけ時間がかかる。前者が「ファスト・ラーニング」で、後者が「スロー・ラーニング」ですよね。まあこの例えは、ブロードバンド化した現在だとピンとこないかもしれませんが。

でも、学校のテストって明らかに「ファスト・ラーニング」でしょう。無限の時間を与えて、「ひらめき」を試したりしませんから。ということはですよ。「俺は、テストに不向きな人間だから、そんなにテストの点で一喜一憂しなくてもいい」ってことじゃないですか!乱暴に言うと、「俺は創造性があるから、テストの点が悪くてもいいんだよ!」ってことです。ああ、これは俺の心の叫びなのですけど。「ファストもスローもどっちもできた方がいいじゃん」って言われそうですが、脳としてはそうもいかないらしいんですよ。脳って、ある脳力(能力)に特化すると、ある脳力(能力)が衰えるという、背反な感じになってるのだそうです。レインマンのように。

ああ、だからと言って、学校の勉強を軽んじて良いわけではないですよ。勉強したことは「ひらめき」の材料になりますから。ただ、一生懸命勉強したのにテストの点が悪くても、そんなに落ち込むことはないということです。これからの時代、求められるのは「ひらめき」、つまり「創造性」ですから。

"ひも"009:レベル2→レベル3(part4)

今回は仕事についての話です。もし、「仕事をしていないおまえに何がわかる」と思う方は読まないでください。

「仕事が楽しいはず無いじゃないか症候群」を治すための処方箋について。

-仕事とは何か-

俺がついこの間まで考えていたのは、仕事とは「とりあえずは生活するために、あわよくば豊かな生活をするために、金を得ること」というものでした。しかし、その考えは養老孟司さんの本を読んで、いくらか思い直したのです。

養老さんが言うには、仕事とは「社会に開いている穴を埋めること」だと。つまり、社会の中に誰かが埋めなくてはいけない穴があり、それを自分が埋めると、社会からの報酬としていくらかのお金が貰える、というわけです。

この2つの考え、前の俺の考えと養老さんの考えで異なっている点は、前者が「金が得られるならば、仕事は何でも良い」という解釈が出来るのに対して、後者は「仕事は社会が要求しているものに限定される」と解釈できる点でしょう。この違いはかなり大きいものではないでしょうか。

-埋めた穴の大きさ=報酬の額-

「金を儲けて何が悪い」と言われると、「いや、別に悪くは無いけどさぁ・・・」と思いたくなります。その「さぁ・・・」の後に続く言葉は何か。俺は「その主張、なんか違和感がある」という言葉ではないかと思うわけです。

そしてその違和感、おそらく、「埋めた穴の大きさ=報酬の額」が成り立ってないんじゃないか、という疑念から来るものだと推測します。つまり、100万円の価値の仕事をして、その報酬として1000万円手にしていたら、客観的に見て、なんか釈然としないわけです。

しかし、その人にとってみれば、回収率1000%だったわけですから、嬉しい出来事です。ですが、嬉しいからといってそれを続けていけば、バブルが生じ、やがて弾けるでしょう。その具体的な例が、「金を儲けて何が悪い」であると、俺は思っています。

ですから、それを踏まえた上で「埋めた穴の大きさ=報酬の額」というものは守るべきルールであると俺は考えるわけです。

-なるべく大きな穴を埋めるべき-

もし、「埋めた穴の大きさ=報酬の額」が守られるのならば、なるべく大きな穴を埋めるべきではないでしょうか。なぜなら、その方が社会に対しても、自分に対しても得だからです。もちろんこれはその人の価値観によるものですけど、少なくとも俺はそう思います。せっかく直径100mの穴を埋める能力があるのに10mの穴しか埋めないのは、社会にとっても、その人にとっても、「勿体ないこと」ではないでしょうか。(「勿体」とは、「あるべき姿」という意味だそうです。)

俺が今日読み終わった「さおだけ屋はなぜ潰れないのか?」という本によれば、会計では、そういう「売れるはずだったものが、実際には何らかの理由で売れなかった」ということを「機会損失」と呼び、マイナスとするのだそうです。つまり、「直径100mの穴を埋める能力があるのに10mの穴しか埋めない」は、利益=10m、機会損失=100m−10m=90mとなり、合算で−80mの赤字となるわけです。

-"ひも"に近い方が違和感が少ない-

以上が、俺の考える「仕事の"ひも"」です。(ここでの"ひも"は"原理"と言い換えることが出来るでしょう。)そして、「人は、"ひも"に近い方が違和感が少ないため、楽しく感じやすい」というのが俺の考えです。(以前書いた、「ちゃんとした勉強」は罪悪感が無いために楽しさを感じる、も同じ意味ですが。)

ですから、「仕事の"ひも"」に準じていると、それだけ仕事を楽しく感じやすいのではないかと思います。

-セルフマインドコントロール-

しかし、それ以上に重要なのが「自分の感情を制御すること」でしょう。もしこれが完璧に出来たら、仕事は絶対に楽しくなるはずです。例えば、「あなたは、やる気が出ない時、やる気を出すためにどうしますか?」ということを自問自答してみれば、自分のセルフマインドコントロール能力がわかるでしょう。

俺の最も効果的な方策は、「プロフェッショナル 仕事の流儀」を観る、です。他にも、学校へ通う時などは、朝早く起きる、シャワーを浴びる、音楽を爆音で聴く、背筋を正して歩く、・・・など、いろんな方法を使ってます。

-自分にウソをつく-

セルフマインドコントロールは、「自分にウソをつく」と言い換えることもできるでしょう。腹が立った時、辛い時、落ち込んだ時はそれを忘れようとコントロールし、楽しい時、嬉しい時はさらにその感情を増強させようとするわけですから。

例えば、無意識中で、ある勉強をすることがめんどくさいと思ってたとしても、そこはあえて意識的に「おわ!すげー面白そう!」と思ってみるわけです。そうすることで、脳は「おわ!すげー面白そう!」って思いたいんだな、という俺の意識を酌んでくれ、次第に自然と「おわ!すげー面白そう!」と思うようになるでしょう。

それは確かに、意識的になりすぎる(=都市化しすぎる)というデメリットもあるでしょうが、俺としては、自分にウソをつかずにネガティヴな感情を抱いたまま毎日を過ごすよりも、日常は無理やりにでもポジティブに考え、休日などにその無理やりにした部分、つまり意識的になりすぎた部分を回復させる方が、全体として合理的であると考えます。

-自浄せよ-

なぜこんなことを書くかと言うと、他の人と愚痴を言いあうことでストレス発散する、そういうことが往々にしてあるからです。俺が思うに、愚痴を言い合っても、それはネガティヴな感情の交換にしかなりません。根本的なストレス発散にはなっていないと思うわけです。それならば、好きなことを思いっきりやって、嫌なことを忘れてしまった方がいい。そして何より問題なのは、愚痴を言われた側に元々ストレスが無かった場合、それは等価交換にはならないということです。つまり、愚痴を言われた側にとっては一方的な損失でしかない。

結局、自分のネガティヴさは自分で浄化すべき、ということが言いたいわけであり、そのためには、セルフマインドコントロールが必要不可欠だと思うわけです。

養老孟司-「養老孟司の<逆さメガネ>」

養老孟司さんの本は割と沢山読んだんですが、どの本にも確実に含まれている主張があって、それをメインテーマに持ってきた本が、「バカの壁」であり、この本だと思います。その主張とは、「いろいろ考えてみろ」ということ。つまり、「複雑系で思考しろ」ということではないでしょうか。

例えば、「戦争はいけないことか」という質問があったとして、「絶対いけないことだよ!」とは言うな、それは原理主義で危険な発想だぞと、そういう主張だと思います。「じゃあ、どうすればいいんですか」と言いたくなりますが、養老さんは、その「じゃあ、どうすればいいんですか」という安易に答えを求めることがダメなんだと、そう言ってます。ですが、俺はここで、あえて「じゃあ、どうすればいいんですか」に対する回答を考えてみます。

戦争はいけないことか、いや、いい事かもしれない。例えば、戦争によって危険因子を排除できて不安が減るかもしれない。いや、その排除すること自体が危険じゃないか。でも、少ない犠牲で多くの人が安心できたら期待値としてプラスだろう。まて、今までそういう理論で戦争が行われてきたのに、全然安心できる世の中になってねーじゃねーか。やっぱり戦争はいけないことだろう。だけど、それじゃあ危険因子はどうするんだよ。あの核武装した奴ら、放っておいたら他のトコ攻め始めるぜ。だからそこは対話と圧力でだなぁ。対話と圧力って言ったって・・・・・。

・・・という風に考えていって、あることに気づくわけです。「あ、俺、頭でばっかり考えてる。」養老さんは、頭でばっかり考えることを「都市化」と呼んでいます。「都市」とは、要は人間の頭で作られた世界なわけですが、それがまた原理主義だと。

「じゃあ、どうすればいいんですか」と、また同じ質問になりますが、「頭」の反対は「からだ」であり、「都市」の反対は「田舎」です。今度は「からだ」と「田舎」のことも考えてみろと。しかし、「からだ」と「田舎」のことを「考え」たら都市化なわけでしょう。なので、「からだ」を使って、「田舎」に行って、体感しなくてはなりません。だから養老さんは「参勤交代をすればいい」と言ってるのだと思います。ところで、最初の問題は「戦争はいけないことか」という事でしたが、その結論は「参勤交代をする」という事になりました。ここは笑うところですよ。これってつまり、「いろいろ考えてる」ってことだと思うんです。少なくとも、「戦争は絶対いけないこと」と主張する人のように、思考停止してはいません。そうやって、頭の中に「複雑系」を持ってる人は、決してビルに飛行機で突っ込んでいったりしない。そういうことなのだと思います。

"ひも"008:レベル2→レベル3(part3)

「大学での勉強は仕事に生かせないから大学で勉強するのは意味が無いだろう症候群」の処方箋について。

-大学出は使い物にならん-

よく俺のじいちゃんは言うんですよ。「大学出は使い物にならん」って。それは、じいちゃんが実際に大学出の人を使ってみての感想なのですが、そうじゃなくても、「大学にいくとバカになる」という一般論を昔の人は持っているみたいですね。

で、なぜ、じいちゃんはそう思うのか。話を聞くとどうやら、机上の計算しかできない、ということみたいです。つまり、「ああすればこうなる」と思ってるから、「ああしてもこうならない」時にどうしていいのかわからない。柔軟な発想が出来ないということでしょうか。

これだと大学で勉強した意味は無いわけです。むしろしないほうが良かった。

-学部と仕事の方向性が違う場合-

話は変わりまして、今度は俺の父親の話です。俺の父親、薬学部出身なのですが、今は薬学とは全く関係ない仕事をしています。せっかく取った薬剤師の免許も全然使っていません。こういう、大学で勉強した内容と実際に就いた仕事の内容が全く違うことって、薬学部では珍しいかもしれませんが、他学部では割とあることだと思うんです。

「じゃあ、何のために大学に行ったんだよ」、「高校出たらすぐに今の仕事に就いた方が良かったんじゃないか」、そんな風に言いたくなるかもしれません。というか、俺も今、頑張って有機化学を勉強してますが、有機の知識を生かせない仕事に就くことも、十分考えられることでしょう。学部と仕事の方向性が違う場合、大学で学んだことは無駄なのでしょうか。「雑学」程度のものにしかならないのでしょうか。

-大学時代は遊ぶ期間か-

おそらく、上記の2つのことがあるので、日本では「大学時代は遊ぶ期間」と認識されているのだというのが俺の推測です。しかしそれだと、「なぜ親は子供を大学に通わせるのか」という疑問が生じます。

「どうせ仕事を始めたら楽しいことなんて無いんだから、その前に少しは遊ばせてやろう」という親心だと、亀田先生は言ってましたが、それは事実、俺の父親の考え方なのでした。仕事は辛いことだから、大学の4年間くらいは遊ばせたい。そしてさらに、そこで遊びながらも何とか薬剤師の免許さえ取れたら、食いっぱぐれることは無いだろうから、親としての責任は果たしたことになる。

これが俺の父親の考えみたいです。確かに、理に適ってるように見えますが、今の俺からしたら、そもそも前提条件が間違っているのです。まず、大学を出ても柔軟な発想は出来ます。そして、学部と仕事の方向性が違っても、大学で勉強したことは無駄になりません。さらに、柔軟な発想が出来て、大学で勉強したことを生かせるならば、仕事は辛いだけのものではなく、楽しさと充実感を得られるものになるのです。

-個別から普遍、普遍から個別へ-

柔軟な発想ができないのも、大学で学んだことが生かせないのも、俺から言わせれば、原因は同じです。それは、「"ひも"を知らないから」。と言っても、ここは"ひも"を説明する場なので、言い方を換えましょう。「個別の能力から普遍的な能力を得て、他の個別の能力に転用できることを知らないから」ということになります。図にしてみましょう。

ここでいう、普遍的な能力を"ひも"と言うことも出来ます。(「普遍的な能力=ひも」ではありません。)なので、この図を俺に当てはめると次のようになるわけです。

写真の能力がレベル2になると、"ひも"のレベルが2になり、"ひも"のレベルが2になると、DTM・競馬・有機化学のレベルが2になる。そんな感じなのです。

別の具体例を挙げましょう。

ファミコン時代のシューティングゲームに「グラディウス」というソフトがあります。(別に「グラディウス」でなくてもいいのですが、なんとなく。)「グラディウス」を毎日一生懸命やっていると、「グラディウス」が上手くなります。つまりここで、「グラディウスが上手く出来る」という個別の能力を得たわけです。さて、その「グラディウスが上手く出来る」のはなぜなんでしょうか。もちろん、「安全地帯を知ってる」のようなノウハウ的なものもあるでしょうが、例えば、3方向からミサイルが飛んできた時などに必要な「瞬時の決断力」という能力もあるでしょう。

「瞬時の決断力」は普遍的な能力です。ですから、他の個別な能力に転用することが出来ます。それは例えば、「車の運転」でしょう。

車を運転したことがあれば分かるでしょうが、自分以外の3台の車の軌道を予測して自分の車をどうするか「決断する」。そういう状況ってよくあることでしょう。ここで、昔やった「グラディウス」の経験が生きるわけです。

-無意識を意識する必要がある-

言語化できるのですから、「グラディウス」と「車の運転」は比較的リンクしやすい能力だと思います。グラディウスをやってる感覚をイメージせずとも、頭は勝手に車の運転時に「決断力」を発揮してくれるでしょう。しかし、他の事はそう上手くいきません。「写真」と「有機化学」とかなんて、何の繋がりもないように感じられます。でも繋がっているんです。ただし、それは物凄く漠然としているものなので、言語化なんて出来ない。というか、例えば「有機化学」を悩んでる時に何かひらめいたとしても、このひらめきの起源は「写真」である、なんていう風には辿れません。それは、無意識を意識しまくって、ようやく「あ、"ひも"から何か出てきた!」と思える程度のものなのです。

いや、それだと少しニュアンスが違うでしょうか。有機化学を悩んでる時などに、「無意識を意識する」と、何かを閃く。つまり俺が言いたいのは、「個別→普遍→個別」という能力の転用をするには、「無意識を意識する」必要があるということなのです。

-柔軟な発想ができない、その理由-

柔軟な発想ができない、つまり、「ああすればこうなる」と短絡的に考えるのは、その問題に対して、「1つの個別の能力」でしか考えられないからでしょう。現場の問題は常にいろんな要素が絡み合って、「複雑系」をなしているのに、それを「1本の方程式」で解こうとするのは、かなり無理があるのです。これを解くには、同じ複雑系である"ひも"を用いるしかない、というのが俺の考えです。

-大学で学んだことが生かせない、その理由-

大学で学んだことが仕事に生かせないのも、「能力の転用」という裏技を知らないからだと思います。それは、「無意識を意識する」という能力を使っていないということもあるでしょうが、もう1つ、「大学時代に一生懸命勉強していない」ということも考えられます。「石の上にも三年」と言いますが、「個別から普遍」という最初の段階は、かなりの努力が無ければ起こりません。前回書いたように、「テストのために勉強して、テストが終わったらすぐに忘れる」ということを続けていたら、無構築な人間になるだけなのです。

-大学で学んだことは仕事に生かせる-

まとめると、大学時代に一生懸命勉強し、個別から普遍へ沢山能力を送り、社会に出たら、無意識を意識して、普遍から個別へ能力を汲み上げる。それが、俺の思う「大学での勉強は仕事に生かせないから大学で勉強するのは意味が無いだろう症候群」の処方箋なのです。

"ひも"とは007:レベル2→レベル3(part2)

まずは、もう一度このグラフを載せます。

今回は、赤線のグラフについての話からはじめましょう。この赤線、きっと亀田先生自身のグラフなのだろうと思いますが、どうしたらこういう軌跡が描けるかについての答えは、その時、明確に教えてもらったわけではありません。むしろそれ以降の授業で、試験対策ではない「学問」を先生から学ぶことによって、また、その間に含まれる「赤線の具体例」を雑談として聞くことによって、教わったと俺は思ってます。

それではここから、その教わったことを踏まえて、俺が思う赤線の一例を示します。大学に入り、学ぶことに楽しさと喜びを見い出し、学問に打ち込み、それ以外でも自分が向上することを常に考え、行動し、その経験と自信を胸に就職活動をし、就職し、自分のため、周りの人のため、人類のため、地球のために懸命に働き・・・。

とまあ、この辺にしておきましょう。しかし、おそらく、こんな一例を出しても、昔の俺は納得しなかったと思います。それは次のような疑問が生じるから。

    • 勉強が楽しいはず無いじゃないか
    • 大学での勉強は仕事に生かせないから大学で勉強するのは意味が無いだろう
    • 仕事が楽しいはず無いじゃないか

俺がなぜ亀田先生に感謝しているのかというと、この疑問を解消してくれたからなわけです。次のように。

まずは、「勉強が楽しいはず無いじゃないか症候群」を治すための処方箋から。

  • 勉強の成果を見るのがテスト

俺はそれまで、勉強を「テストでいい点を取るための行為」だと思ってました。だから、なるべく点を取るために効率のいい勉強、つまり、よくテストに出るところだけを勉強しようとしてたわけです。でも、これっておかしい事でしょう。本来なら、勉強の成果を見るのがテストなのに、それまで俺は、テストのために勉強してたのですから。

  • テストで点を取るための勉強は効率が悪い

テストのために勉強していたことは、テストが終われば忘れます。それが普通でしょう。「それで何が悪い」と言われそうですが、悪いんですよ。それだと俺という人間は何も成長できていません。ただ、「テストでいい点を取った」という肩書きが残るだけです。それを繰り返していったらどうなるか。実力の無い肩書き人間になるだけでしょうが。

  • ちゃんと勉強したら楽しい

「ちゃんとした勉強」とは何なのかですが、これは俺の有機化学の勉強を例にしましょう。(「俺の」と言っても、実は亀田先生のマネなのですが。)自分なりの有機化学データベースを作ることによって、勉強としているのですが、これは、「体系的に学ぶこと=学問」という考えからきています。つまり、データベースを作り、有機化学という体系を頭に入れているわけです。これを作るために、マクマリー有機化学を読みます。とはいえ、マクマリーもすでにデータベース化されているので、大体この通りにまとめていけば問題ありません。マクマリーを読んで理解するのですが、当然、疑問が出てきます。そしたらその疑問について、思う存分悩みます。もし、他のいろんな専門書を読んでも分からないならば、先生に聞きにいきます。で、十分に理解した後は、どうまとめるかについて、思う存分悩みます。「マクマリーはこう書いてるけど、この方が分かりやすいんじゃないだろうか」とか、表現までこだわって、色鉛筆で丁寧に絵も描いて、納得できるデータベースを作り上げるわけです。

「それの何が面白いの?」と思うかもしれませんが、この面白さは例えば、苦しいのに山に登ったり、マラソンをしたりする感覚と同じではないでしょうか。RPGでレベル99にしたりアイテムをコンプリートする感覚とも同じかもしれません。つまり、思う存分努力することが楽しいことなのです。それに比べると、「点を取るために必要な勉強しかしない」という姿勢は、努力を出し惜しみしていて、楽しくありません。

また、「ちゃんとした勉強」は罪悪感が無いために楽しさを感じる、という面もあるでしょう。この罪悪感とは、「勉強の成果を見るのがテストなのに、テストのために勉強していること」や、「人間的に成長していないのに、肩書きだけが残っていくこと」です。

  • ちゃんとした勉強は効率がいい

これは、勉強したことが残っていくということもそうなのですが、もう1つ、楽しんでいるということが効率のいい勉強なのです。楽しんでいる時、脳の中ではドーパミンなどの快感物質が出てるそうですが、脳は、そういう快感物質が出る前の行動の記憶を強化するという性質があり、これを強化学習と言うらしいのです。

次回は、「大学での勉強は仕事に生かせないから大学で勉強するのは意味が無いだろう症候群」の処方箋から。